スケルトン選手 中山 英子
Profile
なかやま えいこ
- 1970年9月28日、長野県松本市生まれ (同市在住)
- 松本市立開智小学校→松本市立丸ノ内中学校→長野県立松本県ヶ丘高校→早稲田大学社会科学部卒業
- 信濃毎日新聞記者(1994~2011年、競技に専念するため退社)
- スケルトン競技歴 19年(1998年~2016年)
主な戦績と出来事
1998年11月 | 初滑走 |
99年 | 全日本選手権6位 ヨーロッパカップ6位 W杯初参戦 |
2002年2月 | ソルトレークシティー五輪12位 |
03年 | 日本選手権初優勝 W杯サンモリッツ大会5位入賞 世界選手権長野大会11位 |
04年 | 世界選手権ケニクゼー11位 |
06年 | トリノ五輪14位 |
08年 | インターコンチネンタルカップ3位 日本選手権4回目優勝 |
11年 | 信濃毎日新聞退社 |
12年 | ヨーロッパカップ総合4位 |
13年 | インターコンチネンタルカップ6位 |
14-15年 | 最後のW杯参戦 |
16年 | 全日本選手権3位をもって引退 |
About
スケルトン競技とは
スケルトンは鉄製のシンプルなそりに乗って氷のコースをうつ伏せで滑り降りる競技です(仰向けで滑り降りるのはリュージュ)。コースによってレイアウトは全く異なり、最高時速は約120~140km/時。全長約2キロを1分前後で滑走します。 スイスのサンモリッツが発祥の地。
2002年ソルトレークシティー五輪で54年ぶりに正式種目に復活しました。強豪国はラトビア、ドイツ、カナダ、英国など。アジアで公式レースを行えるコースは今のところ長野市ボブスレーリュージュパーク「スパイラル」のみ(現在韓国に建設中)。日本ではマイナーな競技ですが、欧米諸国では認知度が高く、テレビ放映なども行っている国もあります。
動画
Lake Placidワールドカップ(11分40秒〜)
Calgaryワールドカップ(46分40秒〜)
St.Moritzワールドカップ(5分55秒〜)
Königsseeワールドカップ(46分55秒〜)
練習風景①
練習風景②
メディア
Message
冬季五輪種目そり競技の一つ「スケルトン」で、2度の五輪に出場した中山英子(なかやま・えいこ)です。
年齢を超えた可能性に挑戦したいと2018年47歳で迎えるピョンチャン(平昌・韓国)五輪を目指して活動しておりましたが、選考システム上五輪派遣の可能性がなくなったこと、また心身、経済的にも限界を感じる中、2016年12月の全日本選手権(3位)でやり切った!という雲りのない気持ちになれたので、このたび競技の一線から退く事に決めました。
私は1998年の長野五輪時に地元新聞社の運動部記者としてそり種目を取材したことをきっかけにスケルトン競技と出合いました。存続について今まさに話題となっている長野市ボブスレー・リュージュパーク「スパイラル」の後利用について考える中、新興種目だったスケルトンが最も施設活用に繋がるのではないかと感じ、取材をしていたことが縁で滑ってみたところ、怖いもの知らずの私はスケルトンの体感に魅了されて、仕事の合間をぬって練習に通うようになりました。
スケルトンは最初そりを押しながらダッシュして乗り込むスタートと、約1分の滑走からなる種目です。腹這いでそりに乗り、頭から下り、見た目は「クレイジー」ですが、体全体で繊細に舵を取り「動く禅」とも表現できます。経験とメンタルが占める割合も高く、奥深い競技でした。
それから約3年、54年ぶりに五輪種目に復活した2002年のソルトレークシティー五輪に女子で初の出場を果たしました。2006年のトリノ五輪(2006年)に出場後も競技の発展に取り組みつつ、頂点を目指しておりました。
新しい種目で始めた当初から専門の指導者がいなかったため、自分自身ですべてを切り開いていかなくてはならないというタフさが求められました。やりがいもあり、海外でも数多くの経験を積む事ができたことは楽しかったです。半面人材不足で環境面での整備がなかなかされないことは常に悩んでいました。
そんな長い間の思いが相まって、選考方法の不透明さをめぐり日本スポーツ仲裁機構へ2016年6月に申立を行いました。10月に選手側の事実上の勝ちが認められましたが、選手のための環境整備への道はまだまだこれからです。ただ「アスリート・ファースト」に至るきっかけ作りはできたのではないかと思っています。
今後はこれまでのキャリアの中で培った心やスキルを社会で還元できるよう努力していきたいと考えております。どうぞ今後ともご指導、ご鞭撻を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。
スポンサーになっていただいた方へ中山英子ができること
1.こどもたちへの「出前オリンピック教室」
「夢を持つことの素晴らしさ」「夢に向かって努力し、あきらめずに継続することの大切さ」「失敗や挫折に負けない心の強さ」などを伝え、実際に子どもたちとコミュニケーションを取りながら、自分自身を知るための「授業」を県内の小中学生に向けて行う。2010年に東京五輪を控え、五輪自体への関心も高まっている中で、県内の子どもたちと直接会い「五輪」を身近に感じ、何かを感じ取ってもらえる機会になれば。私だけでなく、ほかのアスリートもアレンジし、県内で「出前五輪教室」のような「仕組み」を作り、広げていきたい。
2. 40代の肉体維持、こころとからだのバランスの取り方を講演
40代を過ぎ、刻々と変わる「体力」、それにどう向かいあっていくか。私自身 、この決断に至るまでに心身の上で挫折を繰り返しながら少しずつ決意を固めて挑戦している。トップアスリートとそのメンタルトレーナーたちから学んだこと、自分自身の経験を踏まえながら心と体のバランスの取り方などを話す。“健康長寿都市松本”にちなみ、年齢に関わらず挑戦することや、女性の生き方の提案も。
- テーマ例
- 「体力の低下 〜老化なのか、メンタルダウンなのか〜」
- 「心もけがをする 〜克服の道〜」
- 「モチベーションの維持策に 〜女性特有のイベントをどう捉えたか〜」
3. 以上のことを踏まえた社内報、各種メディアなどへの執筆・出演
4. 御社名の海外への露出
スケルトン並びにそり競技は海外では大きなスポンサーがつき、ワールドカップ等の映像がニュースやスポーツ番組で放映。Youtubeでも、大会映像をリアルタイムで放映している。ウエアやそり、ヘルメットにスポンサー名を貼付けることで、世界のメディアに広がる可能性も。国内での露出は日本選手権しかないが、オフシーズン中の練習ウエアにスポンサー名を貼付けることで、それを着てトレーニングすることで、地道ではあるがイメージアップを図れる。
Support
代 表 挨 拶
中山英子さんは信濃毎日新聞記者として、1998年長野冬季五輪でそり競技を取材。それをきっかけにスケルトンと出合い、2002年ソルトレーク、06年トリノの両五輪に出場した、異色のアスリートです。
40代半ばの今、再び自らを燃焼させ、五輪の大舞台を目指す決意を固めました。平昌五輪まで2年半余。体力面、精神面、金銭面など克服しなければならない課題はたくさんあります。そんな彼女を少しでも支えたい、応援したい、との思いを抱いた者たちが、「中山英子さんを応援する会」を立ち上げました。
中山さんの夢を一緒に追いかけてみたいと思います。 また、その活動を通して、スポーツの魅力や健康の大切さを広く伝えていきたいと考えています。 誠に勝手なお願いで恐縮ですが、ご支援・ご協力をいただきたく存じます。 なにとぞ、趣旨をお汲みとりくださるよう、よろしくお願い申し上げます。(2015年8月)
応援コメント
「挑。何がそうさせるのか。その姿が力強くて美しい。」
副代表 瀧澤功氏(かつ玄代表)
「私、まだ速くなる気がする─。28年ぶりに再会した幼稚園の同級生が放ったひと言は、私の心を強く捉えました。年齢・経験を重ねるからこそ広がる心身の可能性もあると、仕事を通じ実感していたからです。」
副会長 寺平美樹氏(健康サポートプランニングWill代表、スポーツトレーナー)
「大学時代のスポーツ新聞のサークルの後輩が、まさか、こんな競技のオリンピック選手になるとは。 しかも、40代半ばでさらに次を目指すとは…スポーツウォッチャーとして興味深く、サークルのOB会代表としてもエールを送ります!」
大岩堅一(アナウンサー)
向春の候、皆さまにおかれましては益々ご清栄のこととお喜び申しあげます。
一昨年の夏に「中山英子さんを応援する会」を結成して以来、大勢の皆さまより温かいご支援を賜わり、ありがとうございました。お寄せいただいたご芳志は、これまで海外遠征費や用具購入の一部として使わせていただくなど、中山さんの選手生活の支え、励みとなっておりました。事務局よりあらためて御礼申しあげます。
なお、すでに報道等でご存知かもしれませんが、中山さんは昨年末の全日本選手権をもって、オリンピックをめざすアスリート挑戦からは距離を置くこととなりました。応援する会の活動も、中山さんの引退にともない区切りとさせていただきます。
以上、略儀ながら、ご報告かたがたご挨拶申しあげます。
平成29年2月18日
中山英子さんを応援する会事務局 田中健太郎